2022年5月福井旅行。2日目。
2日目は丸岡城と一乗谷城、2か所のお城巡りをします。完全に私の趣味に付き合ってくれた母に感謝。
(一応、母も大河ドラマ好きだし人並みには歴史も好きなので、楽しんでくれたはず。)←希望的観測。
あわら温泉方面から丸岡城へバスで行くことも可能ですが、本数が少なく時間もかかるので、旅館からタクシーで行くことにしました。旅館からは約20分。
福井は麦の栽培もさかんのようで、道中の車窓には麦畑が広がっていました。
丸岡城へのアクセス
私たちは旅館からタクシーで行きましたが、公共交通機関でアクセスする一般的な方法は下記の2パターン。
JR芦原温泉駅から京福バス「芦原丸岡永平寺線」で約20分 「丸岡城」バス停下車
丸岡城の歴史
丸岡城は1576年、柴田勝家の甥である勝豊によって築城されました。勝家が築城した北ノ庄城の支城としての役割がありました。
丸岡城は現存する天守で最も古いとされてきましたが、天守の構造などを分析すると近世城郭に改築された1613年の造営という説が有力だそうです。
大正中期から昭和にかけて濠は埋められ、現在は本丸と天守、石垣を残し城域は公園として整備されています。
昭和23年の福井地震で倒壊したものの、可能な限り倒壊前の資材を使い修復再建されました。
一筆啓上 日本一短い手紙
全国初の手紙のコンクールとして平成5年にスタートした『一筆啓上賞』
それにまつわる一筆啓上 日本一短い手紙の館が城公園に併設されています。
一筆啓上賞は、上の説明書きにあるように徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が陣中から妻にあてた短い手紙にちなんでいます。
【一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ】
この文中に出てくるお仙が、初代丸岡藩主本多成重であったことから、この手紙をモチーフに『一筆啓上賞』が誕生しました。
時間の都合上、手紙の館には行かなかったのですが、天守までの道のりに過去の作品が書かれた燈籠が並んでいます。
思わず歩きながら、一つ一つじっくり読んでしまいました。くすっと笑えるものもあれば、うるっとくるようなものも。短い文章の中に、家族や友人、自分自身への思いが詰まった素敵な文章ばかりでした。
城内
天守
日付入りの看板が置いてあり、天守撮影のベストショットポジションが非常に分かりやすい。
望楼型と呼ばれる古い形式の天守です。
福井地震の際落下した石製の鯱。元々は木製銅板張りでしたが、昭和15~17年の修理の際、戦争中で銅板の入手が困難だったため石で作られました。
現在は、震災後の修復時に銅板で復元された鯱がのっています。
武将は往々にしてイケメンになりがち。
現存天守あるあるですが、階段が当時の角度のため非常に急です。
上りよりも下りの方がより怖い。
急な階段を上った3階からはお城周辺がよく見えます。
毎日学校から丸岡城眺めれていいな~
って言ったら、母に
当たり前の風景だから通ってる子は何とも思わないんじゃない
って言われました。確かに。私(奈良出身)が鹿見ても何とも思わないのと同じか。
丸岡城の特徴である笏谷(しゃくだに)石(福井産の緑色凝灰岩)の瓦。
一般的な瓦では凍結などで割れてしまうため、冬の寒さに強い石瓦が使用されています。
石垣
自然石をそのまま積み上げた野面積みというスタイル。
城郭建築初期の頃の積み方です。時代を追うごとに、石垣はキレイに加工され、ぴっちりと積まれる方式になりますが、個人的にはこの無骨な感じの積み方も好き。
お静の供養碑
築城時に人柱となったといわれるお静さんを供養するための碑。
伝説の井戸
勝豊が丸岡城築城前にいた豊原という地は、一向一揆の最後の拠点であったため、丸岡城築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてきました。
その度に、この井戸から大蛇が現れ、城に「かすみ」をかけて城の危機を救ったのだそうです。このお城が別名「霞ヶ城」と呼ばれるゆえん。
今も春先などに霞の覆われた丸岡城を見ることができるそうです。
ということは、昔の霞も大蛇のおかげではなく季節的なもんよね。とか言うのは無粋です。
丸岡城を見学後、今度は一乗谷城へ行くため一旦福井駅までバスで戻ります。
公共交通機関を駆使する限り、多少効率悪いことになりますがいつものこと。