先週、桜前線を追いかけて富山&新潟の旅に行っておりました。
今回の旅は、天候や己の失態で計画通りに行かないことも多々あったのですが(何が起きたかはおいおい)私の旅のベースとなっているお城と花と鉄道を楽しんできました。
まずは、富山県砺波市にある続100名城の増山城をご紹介します。
増山城が初日の目的地だったため、大阪からサンダーバードで金沢へ。(2時間45分)
金沢駅からは、鉄印参加社である「IRいしかわ鉄道」「あいの風とやま鉄道」を利用し、高岡駅へ。(39分)
高岡駅でJR城端線に乗り変えて砺波駅まで。(21分)
大阪駅から約4時間半かけて増山城の最寄り駅である砺波駅に到着しました。もはや最近5時間以内なら「近いな」と思うレベルに達しています。
増山城へのアクセス
JR城端線「砺波」駅から車で約20分
車以外の手段としては、砺波駅構内または、駅から徒歩10分ほどの場所にある道の駅砺波にある観光案内所にてレンタサイクル。
ペーパードライバーの私は、選択の余地なく今回もレンタサイクルです。
私が行った水曜日は駅の観光案内所が休みだったので、道の駅まで10分ほど歩いていきました。(駅構内の観光案内所は火・水曜日が定休日)
道の駅砺波は「となみチューリップフェア」で有名な砺波チューリップ公園の隣にあります。
レンタサイクル(電動自転車)は、4時間以内500円と良心的な価格。
道の駅砺波から、まずは増山城のスタンプ設置場所である「砺波市埋蔵文化財センター」を目指します。距離は約5キロ。
(自転車でルート出て来なかったので、車でのルートを載せています。)
薄曇りではありましたが、立山連峰の山々を見ながらのサイクリング。
高い山、たかまるっっっ!!
(私は大きい山を見るのが好き。)
川沿いの桜が綺麗。
電灯の柱にもチューリップ。道中、歩道沿いにちょこちょこチューリップが植えられていて、チューリップの街・砺波を感じながら走ること約30分。
砺波市埋蔵文化財センター到着。
スタンプは入口入ってすぐの場所に置いてありました。
施設内の拝観は無料。砺波市から出土した考古資料の展示がなされています。
増山城の模型もありました。資料をささっと見て、すぐに出発。
こちらの施設から、増山城までは更に約4.5キロあります。先はまだ長い。
なお、砺波市埋蔵文化財センターまでバスで行くことも可能のようです。
その場合は、加超能バスの砺波総合運動公園線で「北明太子堂」下車 徒歩5分程度。
ただし、本数は1日5便。2~3時間に1本程度しかありません。
ここまでバスで来たあと増山城まで4.5キロ歩くことを考えたら、駅から電動自転車をレンタルした方が楽だし、時間的にも早いと思います。
バスの時間は、下記HPの「砺波市営バス時刻表1」PDFをご確認ください。
増山城に近づくと、このような案内板も出てきました。
そして、砺波市埋蔵文化財センターからさらに約30分かけて増山城の駐車場兼休憩所となっている増山陣屋に到着。
中にはベンチや増山城に関する資料などがありました。
ここにスタンプ置いておいてくれたらいいのに・・・
お城とスタンプ設置場所が離れていると、車利用できない者からするとかなりしんどいのよね・・・
はい、1時間やってたどり着いた場所ですが、ここがゴールではありません。お城巡りはここからようやくスタートです。
砺波市埋蔵文化財センター利用案内
・開館時間:9:00~17:00
・休館日:月曜日、毎月第3日曜日、国民の祝日(国民の祝日が月曜にあたるときはその翌日)、年末年始
・入館料:無料
増山城の歴史
増山城の詳細な築城年代は不明ですが、前身である和田城が文献に初めて登場するのは、南北朝時代。ただし、和田城の前身は増山城の隣にある亀山城と見る説もあるそうで、はっきりとしたことはいまだ不明のようです。
当時の越中守護は桃井氏。その後、斯波氏を経て畠山氏の家臣・神保氏が守護代として越中の支配を強め、縄張りの基礎を作り上げたと考えられています。
1560年、富山城を築いた神保長職(ながもと)を討つため、長尾景虎(のちの上杉謙信)が越中に出兵。長職は富山城から増山城へ敗走し、景虎勢に囲まれた長職は敗戦します。その2年後にも長職は謙信によって攻められ、城周辺は放火されます。
最終的に1576年増山城は上杉謙信によって攻め落とされました。
その後、織田信長の越中侵攻で落とされた増山城は、佐々成政の支配下に。
豊臣秀吉の時代には、前田家が支配するようになり、家臣の中川光重が城主となりました。しかし、最後の城主である中川光重が没した慶長年ごろ、城は廃城となったと考えられています。
城の遺構
増山陣屋に自転車と停めて、増山城の登山口へ。
道の駅でスタッフの方に
桜がちょうど満開ですよ~
と言われていたのですが、来てみたらほんと、満開でした。
予想外のお花見スポット
冠木門
道の駅で頂いた増山城のパンフレットによると、増山城の登山口は3つありますが、増山陣屋から一番近いのがこの冠木門から入る登山口。
増山城は結構広大な山城なので、全部回る時間はなさそうです。とりあえず、1時間ぐらいを目途にお城散策してみよう。
(陣屋にあったノートに「全部見て回ってたら、3時間かかりました」というような記述があったので、じっくり見て回ると相当時間を有する山城みたいです。)
門をくぐって早速登りが続きます。電動とは言え、自転車1時間漕いできた足には結構きつい・・・そして、桜が咲いていたのは登山口の冠木門周辺だけでした。
要所要所には、このように案内表示もしてくれています。そして、地図も持っているのでそれを見れば恐らく普通の方は迷わず目的の場所にたどり着けると思います。
でも、私は何度となく自分がどこをどう歩いているのか分からなくなりました。
武士なら迷子になってさまよっている隙に、すぐ討ち死にしていたと思う。良かった、武士じゃなくて。
大堀切
増山城の象徴的な遺構が、この巨大な堀切(尾根筋を切断し、敵の侵入を防ぐための防御施設)。城の北側と南側に見られ、こちらは北側の堀切。
F郭
私が上がってきた冠木門側からのルートを監視する目的で設けられたと考えられる郭。
この時代にアルファベットの呼称?と思ったら、古絵図に名称がないため仮で付けられた名前だそうです。
左の二の丸へ。
石垣跡
「石垣跡」と書かれた周囲には石らしきものが見当たらなかったのですが(草や土で覆われてしまったのかもしれませんが)その右手側に石垣跡と思われる石の遺構がありました。多分、これのことかと・・・
二ノ丸
中心部の最高所かつ縄張りの中央にあたり、城内最大の隅櫓が存在することから、主郭(本丸)であったと考えられています。広さは約90m×50mと城内最大の広さ。
二ノ丸のほぼ中央に当たる場所に「神水鉢」と呼ばれるこちらの石造物があります。
佐賀県の名護屋城に、軍旗や馬印を立てる台石があり、それとの類似性が指摘されています。
二ノ丸の北東角にある隅櫓・鐘楼堂
二ノ丸が思ったよりも広くて、私は最初鐘楼堂のある場所が三ノ丸だと思っていました。平地ですら、自分がどこにいるか分からない方向音痴の天才です。
無常
二ノ丸から細長く張り出した曲輪。実は一ノ丸を目指して歩いていたのに、たどり着いたのは無常でした。武士ならさまよいすぎて、既に3回ぐらい射貫かれてるわ。
一ノ丸
はい。ようやく目的としていた一ノ丸に到着。城下町から城へと続く「七曲り」と私が上ってきた冠木門からの道の合流点を見下ろすことができる守りの重要拠点。
確かに、上がってきたルートがよく見えます。
そして、城下も良く見えます。パンフレットに「ここからの眺望が抜群」と書かれていたので、一ノ丸を目指して歩いていたのでした。
ちょっと手前の木々がモリモリしていて、抜群と言えるほどではないかもしれませんが、確かに城下が良く見えます。
パンフを同じ向きで合わせてみると、和田川の中に出っ張っている部分(木々の間に見える赤い橋が架かっている場所)が当時の城下町だったようです。(ちなみに、地図が読めない人間の典型として、常にこうやって地図をクルクル回しながら、方向を確認しているため、既に地図がよれよれです。)
(分かりやすい地図なので再登場)
この時点で、入城から30分経過。あとは⑩三ノ丸と⑪安室屋敷まで行って戻ることに。
馬洗池
城内で唯一の池。山の湧き水を利用した池で、歴代の城主が馬の水をくんだと伝えられています。
三ノ丸
安室屋敷
安室屋敷は、階段がつけられた一段高い場所にあります。
二ノ丸と三ノ丸に面する曲輪。35m×72mほどの広さで、二ノ丸に並ぶ大きさです。
ちなみにずっと「あむろやしき」と思っていた小室ファミリー世代ですが「あぢちやしき」と読むようです。
(「あぢち」とは、家督を嫡子に譲って隠居した人の住居を意味するようです。)
隠居後の住居・・・引退した安室ちゃん・・・共通点を感じずにはいられません。
この先にも城の遺構は続いていましたが、散策開始から約1時間が経過したのでここで増山城巡りを終えて下山。
下りを見ると、結構な急勾配であることがより分かりやすい。
桜の花道抜けて、再び冠木門をくぐり増山陣屋で小休憩。
おまけ
増山陣屋で見つけた増山城までのアクセス方法。
増山まで市営バスで来ることも可能だったみたいです。
ただし、到着後次のバスが来るのは9時間後。増山城3周ぐらいしたい方はぜひこちらのアクセス方法もご検討ください。
続100名城のスタンプ帳 公式ガイドブック